鎖国と開国の背景が5分でわかる!歴史を学ぶ大人向けに簡単にまとめました

  • 江戸時代は日本の粋な文化を生み出し、芸術や風俗などの文化も成熟しているように見えるけど、そんな時になぜ開国してわざわざ外国文化を取り入れ始めたの?
  • 日本独自の文化が台無しじゃん。
  • あの時開国せずに日本独自の文化を貫いていたら、今の日本はもっと昔の日本文化を忘れず生活できたのではないか?

 

そんな疑問を抱える日本史初心者の大人向けに、【なぜ長い間鎖国を続けていた日本が開国するに至った】のか、その事情を説明します。

 

ではまずはじめに、なぜ日本が鎖国をすることになったのか、その理由を説明します。

目次

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鎖国した理由

一般的には、1639年のポルトガル船の入港禁止からペリー来航(日米和親条約の締結)の1853年までの215年間を「鎖国」と呼んでいます。

 

ただ鎖国と言っても、外国との交易が一切遮断しゃだんされていたわけではないことは良く知られています。

 

長崎・薩摩さつま対馬つしま蝦夷えぞの四つの口は開けていました。注)薩摩は今の鹿児島、蝦夷は今の北海道。

 

長崎口 … 対中国、対オランダ
対馬口 … 対朝鮮
薩摩口 … 対琉球
松前口 … 対アイヌ

 

 

外国勢を完全にシャットアウトしていたわけではなかったんですね。

 

一部の国々とは関わりを持っていた日本が、なぜそれ以外の国とは『鎖国する』という政策を取ったのか?

 

それは、

 

スペイン・ポルトガルの排除

 

が目的でした。

 

ではなぜ、スペイン・ポルトガルなのか?

 

それは、

 

この両国がキリスト教の布教を原動力として次々と植民地化を進めていたから。

 

このいきさつがとっっっても分かりやすく面白くまとまっているのが、こちらのジモコロさんの記事です。ぜひ読んでみてください。

 

海外との貿易で得られる利益や情報は、とても貴重で魅力的だけど、貿易にともなってキリスト教の布教が進んでキリスト教徒が圧倒的に増えることになりました。

 

キリスト教の教えは、幕府の身分制度に反します。

 

キリスト教の存在が、自分たちにとって脅威きょういとなり得る状況に危機感を抱いた幕府は、その根を断つため、外国との交際を制限することにしたのです。

 

鎖国は初代家康がきっかけを作り、第2代将軍秀忠で基盤を作り、第3代将軍家光が完成させた徳川3代に渡る大政策でした。

 

ちなみに、これはまったく歴史の教科書で教えませんが、なぜ秀吉がバテレン追放令を出したのか。。。
それは、日本人が拉致されて欧州で人身売買で奴隷として売り飛ばされていることを知り、秀吉が激怒したからです。

 

天正遣欧少年使節団としてローマ教皇に謁見した伊藤マンショは、ローマで素っ裸の日本人女性が縄に繋がれて売られていたのを見た、という報告書をのちに残しています。

 

この時代からすでに、日本はキリスト教における白人列強から狙われていたのです。時代が下り、江戸末期には抜き差しならない状況になっていきます。

 

鎖国の具体的な政策とは?

 

~鎖国政策~

■国内のキリスト教の伝道・信仰を禁止

■スペイン・ポルトガルとの通商・来航を禁止

■オランダ・中国との貿易も長崎港に限る

■外国人の居住は居留地に限るなどの制限を設ける
※出島が有名ですね。

■さらに日本人の海外渡航を一切封じる

■すでに海外にいる日本人の帰国も認めない

 

 

もしも鎖国をせず、この国の宗教がキリスト教(カトリック)主流となっていたならば、皇室の存在意義もなくなってしまう。

 

そうなったら、もしかしたらこの国はポルトガル語もしくはスペイン語の国になっていたのかも…。

 

「時の権力者が、あの時にこっちを選択していたら?」なんて、そんな想像を膨らませるのもまた、興味深い。

 

歴史って、過去の一刻一刻が分岐点ですね。

江戸幕府が開国せざるを得なかった理由とは

さて、鎖国をした理由は『キリスト教の布教を理由に、日本に侵略してくる外国勢を排除するためだった』ことが分かりました。

 

では、日本がなぜこの政策をやめて『開国』するに至ったのでしょうか。

 

答えは、『外国からの圧力』です。

 

その背景をみていきます。

 

背景その1 産業革命

 

18世紀後半からイギリスを中心に『産業革命(Industrial Revolution)』が起こりました。

 

石炭を燃料とする蒸気機関の仕組みが発明されたことにより、産業のオートメーション化(機械化)が進んだことで、製品の大量生産が可能となり、経済的にどんどん発展していきました。

 

産業革命は、イギリスでは18世紀に発生。

 

フランス・ベルギー・オランダなどがそれに追随ついずい

 

その他の国では産業革命化が遅れ、ドイツやアメリカは1870年代と続きました。

 

こうして力を得たイギリスをはじめとする欧米列強国は、圧倒的に力の弱い国々を植民地化することに成功します。

 

このように、自国の利益のために他国に侵略し、主権を奪い従属させる『植民地化』して権益を拡大させていく考え方を『帝国主義』といいます。

 

非常に野蛮な考え方ですね。

 

背景その2 アジア諸国の植民地化を狙う欧米列強の存在

 

歴史の教科書でおなじみのコロンブスバスコ・ダ・ガマを筆頭に、ヨーロッパ人の世界進出が15世紀半ばから始まりました。

 

大航海時代の幕開けです。

 

ヨーロッパ人がアフリカアジアアメリカ大陸への大規模な航海を行い、発見・・した土地で略奪りゃくだつ搾取さくしゅの限りを尽くした時代。

 

15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われました。

 

ちょうど日本が危機感を抱き、鎖国政策を取った時期です。

 

そもそもすでにそこに文明を築いている人たちに向かって『発見』とは図々しい考え方ですよねぇ。

 

極東に位置する日本にとっては幸いなことに、当時のアジアにはオスマン帝国をはじめ、中国にも強大な国家が存在していたことにより、西側から容易に進出ができませんでした。

 

しかし、18世紀後半からの産業革命のおかげで欧米列強の力が増大していくにつれ、アジアは列強国への原料供給地および製品の市場となり、欧米諸国の植民地として分割されるようになっていきます。

 

19世紀にはアジア諸国は欧米列強の植民地となってしまいました。

 

~19世紀のアジア植民地~

  • イギリス…現在のパキスタンとバングラディシュを含むインド・スリランカ
  • オランダ…インドネシア
  • フランス…ベトナムなどのインドシナ
  • アメリカ…フィリピン

 

19世紀にはすでに日本の周囲が外国勢に占領されてしまったんですね。

 

背景その3 アヘン戦争

 

欧米列強の東アジアへの進出を拒む最期の壁ともいえる、東アジアの大帝国であったしんアヘン戦争18401842)でイギリスに敗北したことが幕府の耳にも届くと、幕府内に大混乱を巻き起こしました。

 

あの大国が敗れるはずもないと思っていただけに、その衝撃は計り知れず、右往左往の大混乱。

 

それまで幕府は、沿岸に近づく外国船はただちに砲撃して追い返すよう「異国船打払令いこくせんうちはらいれい」を出していましたが、長崎経由で伝わる外国の情勢、とりわけアヘン戦争での清の敗北を知った幕府は、1842年(天保13)、打払うちはらい無謀むぼうなことをさとり、外国船には水や食料を与えて立ち退かせる方針に変更したのでした。

 

この辺の政策の定まらない感じに、幕府の相当な焦りが想像できます。

 

背景その4 江戸泰平の世の弊害

 

産業革命は、工業に限らず交通軍事など、さまざまな面で革新をもたらしました。

 

日本では16世紀に火縄銃ひなわじゅうが伝わり、おりからの戦国時代にたちまち広まって、一気に世界一の鉄砲保有国になりました。

 

ところが江戸時代に入り、二百数十年の安定した世の中が続くことで、経済面や教育、商業の発達は著しく、1人あたりのGDPは当時の中国やスペインを凌駕するレベルに達していたにもかかわらず、泰平の世の中に兵器の発達はありませんでした

 

刀剣に価値が見い出され、侍たちは銃ではなく剣術を磨き、武士の戦闘スタイルが刀になった時代。

 

そんな江戸時代の幕府・諸藩の武器庫には、戦国時代と変わらない火縄銃が貯蔵されているという時代錯誤な状態でした。

 

そして19世紀、蒸気機関の軍艦とともに次々と来航し始めた欧米諸国は、新式のライフル銃大砲などを持って通商を求めて日本各地の沿岸に接近したのです。

 

日本はそういった欧米列強と交戦するだけの武力が、この時代すでに喪失されていたのでした。

 

大国が敗れたことで、列強国が次から次へと日本にやってきます。

 

そんな激動の時代の流れに幕府はついて行けず、混乱するのみ。

 

背景その5 トドメの黒船来航

 

1853年(嘉永663日、アメリカのペリー総督が4隻の黒船で浦賀に来航し、下田に上陸。

 

ペリーは開国を求めるアメリカ大統領の国書こくしょを幕府に提出しました。

 

ところが幕府はどう対応したらいいのかわからず大混乱。

 

すぐに結論が出せず、返答に1年の猶予を要求しました。

 

その条件を聞き入れ、「イチネンゴ マタクルネ」と去っていったはずのペリーさんでしたが、1年後どころか7か月でまた来ちゃいました。

 

しかも今回は、前回の4隻から7隻に増えている…。

 

実はこの時期に、第12代将軍・家慶いえよしが亡くなっており、それを香港で聞きつけたペリーは予定を早めてやってきたのです。

 

将軍の死で幕府が混乱している今が良い機会だとにらんだんですね。

いつの時代も支配者は狡猾こうかつですね。狡猾だからこそ支配できるのか…。

 

ついに、日米和親条約締結

結局、幕府はペリーに押し切られ【日米和親条約】を結ぶことになりました。

 

下田箱館いまの函館)の2港を開港し、アメリカ船(捕鯨)に燃料と水・食料を提供することになったのです。

 

それを知った列強国も次々に圧力をかけてきて、アメリカにつづき、ロシアイギリスオランダとも同様の条約を結ぶことを余儀なくされ、長く続いた日本の鎖国がここに終わりを告げました。

 

尊王攘夷運動が盛んとなり明治維新へ進んでいく

外国の脅威にさらされた日本は、このままの体制では外国の侵略待ったなしと考える攘夷派じょういはが幕府相手に反体制活動を続け、ついには大政奉還たいせいほうかん王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれいへと歴史は進んでいきます。

 

欧米列強によってこじ開けられた日本の近代化への道。

 

幕末から明治維新にかけて、265年の泰平の眠りを打ち破り、激動の時代の幕開けとなりました。

 

まとめ

なぜ開国することになったのか?

 

この時代、もはや日本が国として存続するには日本の事情だけでは収まらず、欧米列強と戦えるほどの軍事力もない日本は、圧力に屈するしかなかった…。

 

 

ただの通商どころか、このあと締結される日米修好通商条約(通称:不平等条約)で日本は欧米のやりたい放題に悩まされることになります。

 

このあたりの詳細はまた別の記事で解説します。

 

ちなみに、ジモコロさんの記事にあったように『歴史を学ぶには、その背景を説明してくれたらもっと面白く勉強できたのに…』論ですが、背景を聞いても小・中学生にはまだまだ見聞が足りないので、あまりピンと来ないのではないかと思うのです。

 

だから、学生時代の歴史は受験勉強の暗記一択しかないのかなぁと。

 

歴史を勉強するのは、見聞も広がり経験値のある大人になってからの方が断然面白いと思います。

 

知識も増え、社会の仕組みや動きも把握できるようになった状態で学びなおすと、子どもの頃には見えなかった登場人物の心の動きや、社会の動き、背景を理解する力もあるので、やっぱり歴史は大人になって学ぶ機会を得たもん勝ちかなぁなんて思ってます。

そんな『大人になってから歴史を学び直す人』にとって、基本的なことが学べる記事を、今後もどんどん書いていきたいと思います。

 

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